土地バブルの牽引車は金融政策だった。1980年代後半はバブルを後押しするかのような金融政策が取られた。起点は85年だった、米欧がドル高の是正で合意するプラザ合意があった。円相場は84年末に1ドル251円だったのが、85年末に200円、86年末に160円、87年末に199円と円高が進んだ。これに伴い日本の実質輸出は、86年に前年比で3・4%も減った。同年製造業大企業の経常利益は同23・6%も落ち込んだ。
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日銀総裁が後に「怨嵯の声が聞こえてくる」と表現した円高不況だった。日銀はプラザ合意後、金融緩和に踏み切る。86年1月に公定歩合を5%から4・5%、3月に4%、4月に3・5%、11月に3%、87年2月に2・5%へと5回にわたり急速に引き下げた。日銀は金融政策の中間目標として通貨供給量の動向を注視していたが、その代表的指数である譲渡性預金(M2プラスCD)の残高伸び率は、86年の8・7%から87年に10・4%に加速。89年9・9%、90年17・7%とほぼ2桁の伸びを続けた。円高対策でいわばジャブジャブの金融政策を続けたことが、土地バブルを加速させた感がある。日銀は87年秋に利上げの準備をしていた。プラザ合意という特殊な状況を受けた金融緩和局面は終わったと判断したからだ。ところが87年10月に、米国の株安をきっかけに海外の株価が同時に暴落するブラック・マンデー(暗黒の月曜日)が起きる。欧米の金融当局は危機対応モードに入り、日銀は利上げの準備を取りやめざるを得なかった。